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シーマン2の実況をやめたナカジです。ですが、原点は無人島メタボの彼にあるので、このブログタイトルはこのままです。小汚い日常を綴らせていただきます。
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一応、内定決まったんですが、まだ少し不安なので、もうちょっと所信表明は待ってもらうことにして


大人って何が大人なんですか?


子どもって何が子どもなんですか?


ただ、考えが聞きたいだけなのに、議論=言葉での負かし合い、になってしまっていることがたくさんある。だから、何も生まれない。相手のことが理解出来ない。


それでも、文句は言い続ける。


何がしたいんや?


昨今のマスコミによる政治家、議員などの言葉遣いのあげ足取りにも感じることです。


マスコミに関しては、政治をいい方向に持っていくなんていう倫理なんてもともとないのに、歴史的にもただのお知らせ機関やのに(出島などの外国人だけが住んでる地域で日本語のわかる外国人が外国人に向けて書いた新聞というか雑誌があるのですが、それには日本政府への批判が書いてあって、日本の新聞にはそういうことが一切書けなかったということがあり、もともとこういったジャーナリズム、批判は日本にはなかったものです、むしろできなかった。ちなみに、新聞の普及には国の手助けが大きな力になった、なんか今の新聞の赤字とかを見ていると納得できる気もする。そもそも国が助けないと、チラシが挟まってないと新聞なんて・・・その証拠にまた国が新聞を助けるようなことが水面下で進んでます。新聞を読んでるサラリーマンに対する新聞費用免除のようなもの、申請すればやけど。)


もともと批判とかするようなものでなかったのに、社説とかジャーナリズムとか、それは勝手ですが、学校現場でただ、ただ新聞を読みなさいというのは、どうかと思います。そして、最近の教育現場ではメディアリテラシーを育てることが行われてますが、その理由としては、インターネットなどの情報の多様化に対してだと思いますが、憶測ですが。そこをメディアリテラシーが必要な要因にするのはどうかと思います、本気で。新聞とテレビとラジオしか情報源がなかった時代にも十分、必要なものだと思います。


それを教える方法は、ボクの中で1つ決まってるのがあります、それはその情報を発信する情報源がどこからお金をいただいて成り立っているか。消費者以上にお金をどこからいただいているかを教えること。


情報の信用度を決定しているものは何かということもそこで考えてもらえば、幸いです。


実際、マスコミにジャーナリズムは存在していたのか、があやふやです。


メディアリテラシーを育てることはホントに重要な課題だと思います。


というように、教育に対してゴタゴタ言ってますが、一応、所信表明をする内定をいただいたところが、教育関連なので。


ただ、このブログで毎回言うかもしれませんが、学校の教育現場では『子どもたちのことを考えて』という意図とはまた別の次元の意図によって決定されていることがたくさんあると思います。


最近思う、その1つは学校の科目の『世界史』だと思ってます。


以上!!
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不景気の今だからこそ、学生たちは、大学生たちはやるべきだと思う。


大学生新卒採用ボイコット運動を。


新卒採用のメリットを教えてほしい。

1、『フレッシュさ』

なら高校生に勝るものはないのではないか。大学生(順当に行って22歳)はあきらかにフレッシュではないだろうかと言いたい。4年間、勉強よりも遊んだということが大学生活の思い出のほとんどを占める子たちは確かに危機感だけで動く人間になってしまっていると思う。


要するに


大学卒業→新卒入社(会社員、公務員)


大学卒業→既卒者(フリーター)もしくは非正規社員


この違いが大変な危機感を煽っている。特に、企業の新卒採用という雇用慣行、リクルートなどの大学生対象の就職応援会社、大学に入れば良い企業(デカい企業)に入れるという時代で成長した世代の親からの期待。という諸々のものがそのあるはずのない危機感を作り出しているように思う。


ここで親に関する要因は責めるべき部分ではないと思う。その人が育った時代、環境を責めるのは一番生産性のないことだと思うからである。むしろ、責める責めないという次元での話はすべきでないと思う。それを行ってしまうとただの文句の言い合い、ケンカになってしまい、議論でなくなるから。


ちなみに、リクルートのリクナビでは新卒採用と中途採用(転職)にしか窓口がなく、既卒者に対しては存在がないも当然のような仕組みである。そして、この新卒採用で食っている。新卒採用ボイコット運動をすれば、大学生側からのニーズもなくなれば、既卒者に対する窓口を開かざるをえんと思う。そして、さらに大学で4年間勉学に重きを大学側も学生側も置けるようになると思う。今の状況では大学が就職するための場というように機能してしまっているのは、仕方がないと思うし、そうせざるをえない。


そして、ボクが切に願うのは、『何より高卒で働ける環境をもっと作ってあげるべきだ』ということです。


教育費がどれだけ詐欺まがい的に親の老後に使える財布を苦しめてしまっているか。それを考えるべきだと思う。子どもがではなく、教える側、国側が、だ。それを子どもたちに考えるよう押し付ける儒教的な構造がなぜか、自然と起きるし、教師側もそれを当然のようにして言う、それがイタイタし過ぎる。奨学金という利子付きの借金を貸し付けて経済的な面を助成?し、教育の機会均等を中曽根以来行ったが、そのような機会均等の前に教育費をもっと安くするべきではないかと思う。なぜこれに対して言うかというと、奨学金はほとんどが利子付きであるからだ。


この借金型奨学金の制度によって起きた借金を返すことに対しての新卒採用の仕組みには、問題があると思う。この両者の関係には景気変動にあり得ない、奇跡に近い、経済の恒久的な発展、成長を前提にしているようにしか思えないからだ。


そして、この不景気で就職できなかった(こういう表現自体が問題ではないか?)ではなく、しなかったと言える時代が来て欲しいとボクは願っています。『できない』という表現に日本らしさ、そこに潜む問題があると思う。


努力至上主義、頑張り至上主義のようなものである。


雇用は一番景気に左右されるものなのに、それを個人の努力、頑張りに責任を周囲が求める、一番悲しいことが自分で自分を責めるときにその点を責めてしまうこと。これは、いじめ問題に対面する子どもたちに対して、「頑張れ」ということしか言えない態度と似ていると思う。「頑張る」ことをやっても無駄なことはたくさんある。話を転換させたいじめ問題に関しては、そこ以外に居場所を作ってあげること、アドバイスをせず話をただ聴いてあげることが、最良ではないかと今のところボクは思う。


頑張ればいいってものじゃないです。


こういう場合の頑張れ頑張れっていうのは、これ以上その話題で会話したくないという無意識の現れだとボクは思っている。


頑張ればいいってものじゃないんです。ホントに。


大学で学んだことを、大学生を採用するなら、大学での成績証明書を必須の提出書類にするべきだし、そうしていない時点で、その中身は自明のものであるから、わざわざここでは言わない。


就職できたらどこでもいいと思わせてしまっている時点で、ボクはすごく悲しく思う。そして、子どもたちの「こんなこと勉強しても意味ないやん、将来使わんし」という意見をもっと、深く、重く、考えるべきだと思う。


学校という場をよく考えると、給食の場になぜか天皇かのように鎮座ましてる牛乳や修学旅行など、子どもたちのことを考えているという意図とはまた別の次元の意図で学校の場が動いていることを問題だと言いたい。



ボクは子どもが大好きなので、大人のせいでこれらの世代が苦しい想いをすることには、なんとしても抗いたい。


そのためには、まず、世界史(しかも、近代以前が中心の)に興味を持たせるよりも公民の授業を重視するべきだと思う。関心を持たせようともしないのに、政治的無関心の層を責めるのはお門違いだ。



お門違い!!!



だから、何年かかっても公民、政治経済の教師になる夢はあきらめません。


こういう話を会話でやったときに、KYだと言われない思われない時代が来れば、世の中は少し変わると思う。


もっと、笑っていたいよね!!