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シーマン2の実況をやめたナカジです。ですが、原点は無人島メタボの彼にあるので、このブログタイトルはこのままです。小汚い日常を綴らせていただきます。
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実況解説14です。

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はやくあげて〜っていうなんとも嬉しいコメントがあったので


もしかしたら、月曜日までにあげるかもです!!


はやくうpして〜って、なんかやらしい雰囲気がありますねぇ。


でへへっへへへ。


いろんな見方ができるものです。


今日、ノーモアヒーローズを売却してきました。動画では3300円って言ってたんですが、なんと。お値段。


1800円!!


ジャリキンッ!!!


嫌な予感はしてたんですよ。先週に売ってればなぁ。下落が早い。若干予想外でしたが、予感はしてました。昔、中学のときの趣味はゲームソフトやマンガを転売してその差額で儲けることに奔走することだっただけに、すっかり勘が鈍ってます。6〜7飛ばして第8感あたりの感覚が。


ここで、題名の小さいけど大きなこと。


この間、大学の図書館の地下の書庫にある文献をコピーするために図書館に向かいました。大学の図書館のコピー機はお金が入らないのです。そこに入るのはコピー機を使うためのテレフォンカード的なカードです。そして、それを買わないといけません。でないと、コピーができないのです。


地下から文献を職員の人にとってきてもらい、どっさりと渡され、机につき、財布の中身を確認。以前、買ったカードが残っていたので出してみると。


「お、残ってる、ラッキー。」


と、声には出さず、心の中、心はどこにあるかという話になると、心臓か脳みそになる。そして、シビアにいうとおそらく脳みそ。センチメンタルチックにいうと心臓のところらへん。ここはあえて脳みそ。


声に出さずに、脳みその中で思いながら数をよーくみると


残り1


うんうん言いながら財布のお金のゾーンをチラッとのぞくと


1万円札しかない。


うんうん言いながらお金を崩しにいかなければと図書館を出て生協に向かおうと決意し、勇み足で出口兼入り口に向かいました。そして、カード自販機はその出口兼入り口のあたりに置いてあるので、嫌でもぶちあたる構造になっています。


予想通り、ぶちあたりました。ぶちあたらざるを得ない構造です。お金を崩さないとという決意に満ちたボクの眼は自販機の札を入れるところを捉えました。捕捉しました。


なんと、一万円投入が可能ではありませんか。


おもわず、すげーと息と声を漏らしてしまいましたが、ここは落ち着きを払って一万円を投入。



は、はいったで!!


で、カードのボタンを押す時に眼に飛び込んできた数字が


500円


ヌァッ!!??


まぁ、やむをえず1枚だけ購入し、『おつり』ボタンを押しました。


一気に出てくるんかなぁと若干どきどきしながら待っていると。


うぃぃぃーん。


1枚。


えっ!!ちょっと!!と職員のところに行こうとするボクを止めるように後ろから


うぃぃぃーん。という聞き慣れた音が。





と後ろを振り返ると。


なんと、千円札が!!さっきとったはずやのにまた千円札が出てきているのです。


なんてこった!!この自販機、なんてこった!!


その後も1枚ずつ、最初の千円札をのぞいて計8回この不思議な現象が起こりました。そして、フィナーレに500円玉がちゃりんと落ちてきました。結果、手元を見ると9500円のお金があったのです。


そう、おつりがしっかり返ってきていたのです。


そして、1枚ずつ出るんやなぁ、と感心しながら自販機を見ると赤いランプがともっていました。


千円札切れ。


死力を尽くしておつりをだしてくださった自販機に乾杯です!!


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というわけで、最近あげたモノたち。



光の道対談生中継を見ました。


電子教科書の導入の話を孫さんがなさっていたのですが、たしかにボク自身は電子教科書の導入には賛成というよりかはすごく興味があるというレベルで賛成です。


ただ、今現在の教育が社会にとって良い人間を育てることに偏っていることに、新卒採用などの大学の姿が会社に入るための場所、それまでの最後の遊びの場という場所にすり替わってしまったこと、それを大学自ら行っていったこと、それがどういうことなのか、これが日本だから、とあきらめてしまうのか。


そこで、すごく思うのが学校の教科に日本の道徳の歴史、教育の歴史を教えることが必要だと思います。この歴史の内容を言うのはここでは省きますが、おそらくこれを教科に取り込むことで生徒たちは子どもたちは『教育』というものに疑問を抱くと思いますが、それでいいのではないかと。そこで悩んで、苦しんで、考えていく子もいれば、そうでない子もいると思います。ボクはこれもいいと思います。


ただ、そういった知識を得る機会を大学に行かないと、自分で調べないとわからないというそういったチャンスを機会を与えるのが大事ではないかと思うのです。


日本の会社が、企業が求める人物像は『自分で考え、自分で行動し、上のいうことには従順な』人です。まだまだピラミッド型の構造で成り立っている人間社会の構造なのでこれは納得ができると思います。そして、日本の教育はこの人物像にぴったりだと思います。悪く言うと、これは『イヌ』だとボクは思っている。彼らは自分で考えて行動してくれるし、従順である。手なずけさえすれば。


ゆとり教育の失敗の結果が『学力低下』といわれ、それが問題だと言われ見直しが始まった。しかし、ゆとり教育はもともといじめ対策、暴行事件の多発に対する施策だったということが重要だと思う。


そして、大学ではろくに勉強をしない、単位数を取得することだけに奔走する。この事態に対して、これらの事態に対して、社会のいろいろな少年青年の問題に対して、大人たちは文句をいう、そういう子どもたち、若者たちの問題というふうに捉える。これは、そうではないと思う。そういうようにしてきたのは明らかに大人であるのではないか。よく子どもたちが未来を作ると言われるが、本当のところは大人が未来を作るということではないか。たしかに、そういうと全ての責任が大人側にまわってしまうから、その責任を転嫁したい気持ちはものすごくわかる。が、しかしそういった気概で子どもと接する、仕事をする、物事について何かを考える、ということをすることが大切だと思う。


これは非常にエネルギーのいることだし、エネルギーは有限資源なのではあるが、頑張るべきではないだろうか。


そして、次に『社会』という教科についてだが、この『社会』という教科の意義、その歴史についても、授業をしてあげるべきだと思う。そして、現在は知識というのが成熟する時期ではないかと思う高校の時期の社会の内容は、「世界史A」「世界史B」「日本史A」「日本史B」「地理」「政治・経済」「現代社会」「倫理」・・とりあえず、こういった感じである。ここで、言いたいのは歴史は近代をやることが大事なのではないかと言いたい。なぜ、政経の取り扱いが現在のようになったのか。社会の教科の歴史を知ると何か嫌な雰囲気を感じざるを得ない。その上で、大人たちは政治に対しての無関心を責めにかかる、憂い出す。


これは、当たり前ではないか。知識がないのにどうすればいいのか。知識がないということは世界が違う、対岸の出来事のようにみてしまうのではないか。それなのに、政治に参加しなさい、政治の機能、種類、意義などについての知識を与えずに、新聞紙を読んで、テレビを見て関心を持ちなさいというのは、間違っているのではないか。もし、それをもとに政治に参加すれば、それこそ、テレビが新聞紙が言うことが政治になってしまうかもしれない、それこそ世論操作が驚くほど成功してしまうし、少し前がそういう状況にあった。そして、現在も世論操作が下手だと言われている民主党が与党であるこの状況でも、少なからずまだそういった状況があると思う。


なーんて、ことをつい考えてしまう生放送。


最後まで見るぞー!!


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