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シーマン2の実況をやめたナカジです。ですが、原点は無人島メタボの彼にあるので、このブログタイトルはこのままです。小汚い日常を綴らせていただきます。
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というわけで、最近あげたモノたち。



光の道対談生中継を見ました。


電子教科書の導入の話を孫さんがなさっていたのですが、たしかにボク自身は電子教科書の導入には賛成というよりかはすごく興味があるというレベルで賛成です。


ただ、今現在の教育が社会にとって良い人間を育てることに偏っていることに、新卒採用などの大学の姿が会社に入るための場所、それまでの最後の遊びの場という場所にすり替わってしまったこと、それを大学自ら行っていったこと、それがどういうことなのか、これが日本だから、とあきらめてしまうのか。


そこで、すごく思うのが学校の教科に日本の道徳の歴史、教育の歴史を教えることが必要だと思います。この歴史の内容を言うのはここでは省きますが、おそらくこれを教科に取り込むことで生徒たちは子どもたちは『教育』というものに疑問を抱くと思いますが、それでいいのではないかと。そこで悩んで、苦しんで、考えていく子もいれば、そうでない子もいると思います。ボクはこれもいいと思います。


ただ、そういった知識を得る機会を大学に行かないと、自分で調べないとわからないというそういったチャンスを機会を与えるのが大事ではないかと思うのです。


日本の会社が、企業が求める人物像は『自分で考え、自分で行動し、上のいうことには従順な』人です。まだまだピラミッド型の構造で成り立っている人間社会の構造なのでこれは納得ができると思います。そして、日本の教育はこの人物像にぴったりだと思います。悪く言うと、これは『イヌ』だとボクは思っている。彼らは自分で考えて行動してくれるし、従順である。手なずけさえすれば。


ゆとり教育の失敗の結果が『学力低下』といわれ、それが問題だと言われ見直しが始まった。しかし、ゆとり教育はもともといじめ対策、暴行事件の多発に対する施策だったということが重要だと思う。


そして、大学ではろくに勉強をしない、単位数を取得することだけに奔走する。この事態に対して、これらの事態に対して、社会のいろいろな少年青年の問題に対して、大人たちは文句をいう、そういう子どもたち、若者たちの問題というふうに捉える。これは、そうではないと思う。そういうようにしてきたのは明らかに大人であるのではないか。よく子どもたちが未来を作ると言われるが、本当のところは大人が未来を作るということではないか。たしかに、そういうと全ての責任が大人側にまわってしまうから、その責任を転嫁したい気持ちはものすごくわかる。が、しかしそういった気概で子どもと接する、仕事をする、物事について何かを考える、ということをすることが大切だと思う。


これは非常にエネルギーのいることだし、エネルギーは有限資源なのではあるが、頑張るべきではないだろうか。


そして、次に『社会』という教科についてだが、この『社会』という教科の意義、その歴史についても、授業をしてあげるべきだと思う。そして、現在は知識というのが成熟する時期ではないかと思う高校の時期の社会の内容は、「世界史A」「世界史B」「日本史A」「日本史B」「地理」「政治・経済」「現代社会」「倫理」・・とりあえず、こういった感じである。ここで、言いたいのは歴史は近代をやることが大事なのではないかと言いたい。なぜ、政経の取り扱いが現在のようになったのか。社会の教科の歴史を知ると何か嫌な雰囲気を感じざるを得ない。その上で、大人たちは政治に対しての無関心を責めにかかる、憂い出す。


これは、当たり前ではないか。知識がないのにどうすればいいのか。知識がないということは世界が違う、対岸の出来事のようにみてしまうのではないか。それなのに、政治に参加しなさい、政治の機能、種類、意義などについての知識を与えずに、新聞紙を読んで、テレビを見て関心を持ちなさいというのは、間違っているのではないか。もし、それをもとに政治に参加すれば、それこそ、テレビが新聞紙が言うことが政治になってしまうかもしれない、それこそ世論操作が驚くほど成功してしまうし、少し前がそういう状況にあった。そして、現在も世論操作が下手だと言われている民主党が与党であるこの状況でも、少なからずまだそういった状況があると思う。


なーんて、ことをつい考えてしまう生放送。


最後まで見るぞー!!
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光の道対談生中継を見ました。


電子教科書の導入の話を孫さんがなさっていたのですが、たしかにボク自身は電子教科書の導入には賛成というよりかはすごく興味があるというレベルで賛成です。


ただ、今現在の教育が社会にとって良い人間を育てることに偏っていることに、新卒採用などの大学の姿が会社に入るための場所、それまでの最後の遊びの場という場所にすり替わってしまったこと、それを大学自ら行っていったこと、それがどういうことなのか、これが日本だから、とあきらめてしまうのか。


そこで、すごく思うのが学校の教科に日本の道徳の歴史、教育の歴史を教えることが必要だと思います。この歴史の内容を言うのはここでは省きますが、おそらくこれを教科に取り込むことで生徒たちは子どもたちは『教育』というものに疑問を抱くと思いますが、それでいいのではないかと。そこで悩んで、苦しんで、考えていく子もいれば、そうでない子もいると思います。ボクはこれもいいと思います。


ただ、そういった知識を得る機会を大学に行かないと、自分で調べないとわからないというそういったチャンスを機会を与えるのが大事ではないかと思うのです。


日本の会社が、企業が求める人物像は『自分で考え、自分で行動し、上のいうことには従順な』人です。まだまだピラミッド型の構造で成り立っている人間社会の構造なのでこれは納得ができると思います。そして、日本の教育はこの人物像にぴったりだと思います。悪く言うと、これは『イヌ』だとボクは思っている。彼らは自分で考えて行動してくれるし、従順である。手なずけさえすれば。


ゆとり教育の失敗の結果が『学力低下』といわれ、それが問題だと言われ見直しが始まった。しかし、ゆとり教育はもともといじめ対策、暴行事件の多発に対する施策だったということが重要だと思う。


そして、大学ではろくに勉強をしない、単位数を取得することだけに奔走する。この事態に対して、これらの事態に対して、社会のいろいろな少年青年の問題に対して、大人たちは文句をいう、そういう子どもたち、若者たちの問題というふうに捉える。これは、そうではないと思う。そういうようにしてきたのは明らかに大人であるのではないか。よく子どもたちが未来を作ると言われるが、本当のところは大人が未来を作るということではないか。たしかに、そういうと全ての責任が大人側にまわってしまうから、その責任を転嫁したい気持ちはものすごくわかる。が、しかしそういった気概で子どもと接する、仕事をする、物事について何かを考える、ということをすることが大切だと思う。


これは非常にエネルギーのいることだし、エネルギーは有限資源なのではあるが、頑張るべきではないだろうか。


そして、次に『社会』という教科についてだが、この『社会』という教科の意義、その歴史についても、授業をしてあげるべきだと思う。そして、現在は知識というのが成熟する時期ではないかと思う高校の時期の社会の内容は、「世界史A」「世界史B」「日本史A」「日本史B」「地理」「政治・経済」「現代社会」「倫理」・・とりあえず、こういった感じである。ここで、言いたいのは歴史は近代をやることが大事なのではないかと言いたい。なぜ、政経の取り扱いが現在のようになったのか。社会の教科の歴史を知ると何か嫌な雰囲気を感じざるを得ない。その上で、大人たちは政治に対しての無関心を責めにかかる、憂い出す。


これは、当たり前ではないか。知識がないのにどうすればいいのか。知識がないということは世界が違う、対岸の出来事のようにみてしまうのではないか。それなのに、政治に参加しなさい、政治の機能、種類、意義などについての知識を与えずに、新聞紙を読んで、テレビを見て関心を持ちなさいというのは、間違っているのではないか。もし、それをもとに政治に参加すれば、それこそ、テレビが新聞紙が言うことが政治になってしまうかもしれない、それこそ世論操作が驚くほど成功してしまうし、少し前がそういう状況にあった。そして、現在も世論操作が下手だと言われている民主党が与党であるこの状況でも、少なからずまだそういった状況があると思う。


なーんて、ことをつい考えてしまう生放送。


最後まで見るぞー!!
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